2023.09.11

新聞休刊日に思い出した話

今日は新聞休刊日。
すでに、夕刊紙も無い。

思い出した昔の話。
会社に入った同期の一人。
4年ほどで、辞めた。
本人の言う事には、製図の勉強をしたいと。
東京に行って、新聞配達奨学生で勉強すると言っていた。
今でも制度は有るようだ。

ただし製図は、CADになり、資格の無い女子がやっていた部署も有った。
CADの専門学校に行き資格を取って、専門会社に入った若者が、数年でリストラに有った話を知っている。
仕事も資格も、数年先で役に立たなくなる。

追記
彼が、何で製図へ走ったのか。
思い当たるふしが有る。
寮の同部屋の相方が、製図の部署にいた。
相方は5年後には、結婚をしていて、さらに独立して市営のアパートに住んでいた。
一度訪れた事が有ったが。
机に製図版が有り、仕事を受けていたんだろう。

昔の技術者の写真を見ると、製図版で線を引くのが当たり前の時代。
製図版が、ディスクトップPCに変わった。
今では、考えられない。

2023.08.15

戦後 奉安殿

卒業した小学校は、開設1926年。

朝ドラの芋たこなんきんで、町子の友人の父親が校長の、尋常小学校の奉安殿が火災になる。
父親は、自殺する。
友人は、引っ越して行った。
かなり深刻なシーンだった。
検索すると出て来る、第58回。
初めて知った奉安殿。

戦後になって壊されたようだ。
たぶん私の小学校には、建物の中に有ったようだ。
聞いた事が無いが。
理科室の裏に準備室が有った。
ここには幻灯器やら、いろいろな理科に必要な物が、並んでいた記憶が有る。
ふと上を見ると、昭和天皇陛下と皇后陛下の、お写真が並んで飾られていた。(敬語です)
理科室も机を片づければ、広さが有る部屋だ。
ここが、奉安室だったのか。

芋たこなんきんを見て、一気に確信となった。
誰も、言わない。

ガラス瓶に入れられた標本も、たくさん置かれていた部屋も有った。
友達が、赤ん坊が入れられている、と言っていた。
気持ち悪いので、はっきりと見れなかった。
標本は、授業では見る事無かった。
断捨離出来ずに、置かれていたのかも知れない。
両陛下の写真を、ここで見たような気もする。(はっきりとしない)

その後に、校舎を建て替えた時に、これらはどうしたのか。
簡単にゴミにしたのでは、戦争を言い伝えられない。

奉安殿 ウィキペディア(Wikipedia)参考

当初は講堂や職員室・校長室内部に奉安所が設けられていた。しかしこの奉安所の場合、校舎火災や地震などによる校舎倒壊の際などに御真影が危険に晒される可能性が高く、また実際に関東大震災や空襲、校舎火災の際に御真影を守ろうとして殉職した校長の話がいくつか美談として伝えられている。このため、さらに万全を期して校舎内部の奉安所は金庫型へ改められ、また独立した「奉安殿」の建築が進められた。前者の校舎一体型は旧制中学などに多く、後者の独立建築型は小学校に多く見られた。

2023.08.08

高校生の時に自転車で静波まで行き泳いで帰って来た

昔の話
高校生の時の夏休みに、自転車で静波海岸まで行った。
何をしたかと言えば、そこで泳いだ。
一人で。
2時間ほど泳ぐ。
海岸で、日干しをしながら。

久しい友は、島田市や金谷町辺りに住んでいた。
電話も無いし。
家にも電話は、まだ付けられていなかった。
前日の夜に、ふと静波に行こうと思った。

当時の道は、車が走る。
ダンプも脇をかすめる。
帰りは、たぶん根性で、ペダルを漕いだと思う。

自転車は、前2速、後ろ6速だった。
ライトが横に2列に有る。
チェンジは、Wレバー並みにギアの音を聞きながら変速。
スーパーカー自転車に近かった。
速度は、そこそこ走れた。
今年の猛暑で、ふと思い出した。

この自転車は、親父が乗りつぶしたようだ。

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